【投稿日】2015年8月5日(水)
森元総理は戦争を知っている世代だが、現内閣の閣僚や橋下大阪市長などは、戦争を知らない世代だと言える。戦争を知っている世代は、「再び戦争はイヤだ」という信念をもっているが、戦争を知らない世代はどうだろう。先日、自衛隊を地球の裏側にまで派遣できる戦争法案が可決された。戦争を知らない世代の内閣の手によってである。
「戦争を知らない世代」で「自分は戦場に行くことはない世代」が、“戦争ゴッコ”をしたがっているように思えてならない。もしそうだとすれば、これは危険な兆候である。
私は昭和15年に、堺市熊野(ゆや)小学校に入学した。戦争が始まったのは2年生の時だった。2年生の4月3日、祖母が何やらご馳走をつくっている様子なので、手元をのぞき込んでいると、「今日は、シンガサンニチやから」と祖母はしばらく考えてから「ご馳走をつくる日や」とだけ答えた。たぶん何の日か思い出せなかったのだろう。しばらくして私はそれが「神武天皇祭」という祝日であることを知った。
軍国主義日本は、天皇絶対の国家体制であった。その天皇社会で、初代天皇(神話の世界で、実在しない天皇だが、当時は実在した前提で教育された)が即位した祝日を国民である祖母が思い出せないということは、日本国にとってゆゆしき問題であるはずなのだが、当時、国家が音頭をとっているほど国民は踊らなかった現実を物語るものだろう。それがどんなご馳走だったかは覚えていないが、物資不足の戦時体制の中でご馳走にありつけたのは幸いだった。
「神国日本は最後には必ず勝つ」と教えられていた。空襲が激しくなり、たとえば金曜日の午後は必ず空襲があった。堺市が直接ねらわれたのではないが、金曜日の午後は毎週「警戒警報」から「空襲警報」へと必ず発令されるのが常だった。金曜日の午後の時間割は、2時間続きの「書道」だったが、私も友だちも、最後には金曜日の書道の準備をせず登校するようになった。それほど米軍機(最初はB17爆撃機・次いでB29爆撃機が投入された)は正確に飛来した。
「最後には必ず勝つ」のならば、今、勝ってほしい、と思うようになったが、戦況は勝てるような要素はなかった。「日本が勝つ」ということに疑問を感じたが、憲兵が怖くて口に出せる状況ではなかった。口に出せなくとも、「日本は勝てるのか」という疑問は友だちももっていたように思う。5年生の教科書を学校が上級生から集めてくれて、それが配布された。そのときは気づかなかったが、その年は教科書の印刷すらできない状況になっていたのだろう。「学童疎開」も経験した。「疎開」について7歳ぐらいしか違わない叔母は「逃げることや」といっていたが、爆撃から逃げることには違いなかった。10歳ほど年上の人は、「特別攻撃隊」いわゆる「特攻」に出撃した。旧制中学校卒業前後で戦死していったのだ。そのような悲劇はもうたくさんだ。戦争を知らない世代の為政者が、再び「あやまち」を繰り返さないよう、次回の選挙では、戦争法案を通した国会議員は、私たちの子や孫の世代が戦争に駆り立てられないためにも、必ず落選させなければならない。(I)