【投稿日】2016年4月18日(月)
上田正昭先生が亡くなられた。88歳、今日ではまだまだ現役で活動する人も多いお歳であった。上田先生もその例外ではなく、ここ数年は健康に自信がもてない、とのことでいくつかの要職を辞されていたが、まだお仕事に向かう活力は十分にお持ちであった。逝去の前日も、地元の亀岡市で亀岡にかかわりの深かった石田梅厳の名にちなんだ顕彰式に出席され、立ったままで1時間近い講演をされた、とのことであった。
上田先生の研究者としての功績は大きく分けて二つあった。その一つは「東アジア史観」の確立である。ともすれば日本の史学界は日本の歴史が日本人のみで形成されてきた、という狭い視野にとらわれてきた。今もそうである。日本列島は絶海の孤島ではない。すぐ近くに中国大陸や朝鮮半島があり、かつては陸続きであった。そのため、多くの人々が互いに行き来し、文化を伝播してきた。そうして「倭国」が形成され、やがて後の日本国家の生成にいたるのである。この歴史の上で大きな役割を果たしたのが、主として朝鮮半島からの渡来の人々であった。上田先生はその著『帰化人』で、その用語の無原則的な使用の誤りを『古事記』『日本書紀』の記述の実証的な検証にもとづいて指摘された。その結果、ようやく「渡来人」が確立し、教科書からも「帰化人」という用語はほぼ消え去った。
もうひとつの功績は「民際史観」である。上田先生は歴史を叙述するときに、たえず「人の交流」の視点から論じられた。たとえば仏教や仏像の伝来、その他考古遺物の伝来にしても、「物」が勝手に動いたのではなく、「人」の動きが「物」を動かしてたことを無視してはならない、という考えであった。そのことを無視して歴史を語ることは歴史解釈を大きく誤る恐れがある、という指摘である。そしてさらに、現代において重要なことは、国家間の交流も大切だが、民衆の交流が歴史を作り、また歴史を変えてゆく大きな要素になる、という考えであった。
この点に関して付加しておくべきことは、上田先生の人権問題との関わりである。上田先生は若かりしころ、京都の公立学校の教壇に立たれていたことがあった。その時、被差別部落出身の生徒がいて、極端な差別を受けていたこと、また在日コリアンの生徒もいて、家庭訪問の時に、その生徒の家族の日本渡航にかかわる家族史を目の当たりにされたことである。このことが上田先生の長く人権問題にかかわることになられた端緒であった。そして後年、京都で設立された公益財団法人「世界人権問題研究センター」の二代目理事長に就任することにつながった。そしてその中に「定住外国人の人権問題」の研究部会が設けられ、私がその部長としての運営をまかされることになった。もし上田先生とのそれまでの出会いがなければ、この研究部会の実現はなかったかも知れない。
2011年夏頃、そのセンター理事長室でKMJ機関誌『Sai』の巻頭を飾る特集記事のために私との対談に快く応じていただいた。お手持ちの方はぜひ再読していただきたい。上田先生の晩年の願い、「21世紀を人権の世紀に」との遺志を継いで、私たちがなさねばならないことは多い。(理事長 仲尾宏)
(本記事所載の『Sai65号』の在庫は僅少あります。頒価840円。送料160円です。事務局までお申込みください。)