【投稿日】2017年4月21日(金)
4月3日から7月17日まで、京都の高麗美術館で「上田正昭と高麗美術館」という特別展が開催される。上田先生の書斎再現や朝鮮通信使関連の館蔵資料、そして白磁・青磁の逸品など80点の見応えある展示となるが、中でも上田先生が手に入れられた「広開土王碑拓本」がそっくりそのまま展示される。日朝の古代史に関心をもつ人々だけでなく、歴史学界に大論争をまきおこした遺物だけに多くの人々の関心をよぶ展覧会となりそうだ。(別掲記事参照)ここでは先生のかずおおくの業績の中で、朝鮮関係のお仕事にかかわる事柄について、かいつまんで紹介しておきたい。
KMJの機関誌「Sai」(65号)は上田先生への取材記事が巻頭に掲載されているので、それも参照していただくとして、先生が朝鮮問題にとくに関心を持つようになったきっかけは、大学卒業まもなく京都の鴨沂高校の先生であったときのある在日コリアンの生徒との出会いだった、という。つまり生身の人間との出会いがその後の先生の研究の方向と視野を決定づけたのである。そのことは、1994年の平安建都1200年の記念事業としての(公財)世界人権問題研究センター開設時の時に実を結んだ。そしてその設立作業のなかで「定住外国人の問題」の研究部会を作ってほしい、という私の申し出を快く受け入れてくださった。そののち今まで十分陽の目をみていなかったこのテーマが、研究対象として各所、各地でとりあげられ、若い研究者が生まれてくる一つの契機づけとなったといえるのではないか、ともおもっている。
上田先生の学問的業績の数々は私の微力ではかたることははばかれるが、一般の人々の関心との関連
でいえば、まず「渡来人」史観の提起とその確立であろう。かつての「帰化人」史観は今日ではまず克服されたといってよい。この問題提起は学会だけでなく、各地で古代の渡来人の資料や遺物、遺跡の発掘と調査に繋がっただけでなく、おおくの人々の関心を呼び起こし、新しい研究の視点を提起したといってよいだろう。
もう一つは朝鮮通信使の評価と人々への問題提起である。先生はある機会に雨森芳洲の先祖の出身地である北近江の草深い雨森の地を訪れて、そこで隠されるように所蔵されていた芳洲の「交隣提醒」の原本を手にし、その書の価値と史的重要性を即座に認識された。
専攻の時代はことなっていても、先生の炯眼はたしかであった。先生の偉大さはその発見を自己の学問的業績に加えるだけにとどまらず、ただちに当時の武村滋賀県知事と語らってその地に「東アジア交流ハウス」を設立することに取り組まれたことであった。
また2001年には京都文化博物館での「こころの交流-朝鮮通信使」の企画と成功に大きく寄与されたことなど、先生は常に実践の人でもあった。その偉業の一端に触れる機会としてこの展示に直接ふれられることをおすすめしたい。(理事長 仲尾宏)