【投稿日】2018年2月7日(水)
灘神戸生協の入り口には「一人は万人のために、万人は一人のために」というスローガンがかかっていた。最近はどうなっているかわからないが、生活協同組合運動の創始者賀川豊彦の言葉である。ラグビーでもよく言われる「ONE FOR ALL ALL FOR ONE」の言葉も同じような趣旨だろう。「これは誰の言葉と思う」と、ある友人に質問すると、彼は「マルクスだろう」と返事した。イメージとしては当たってはいたが答えは間違いである。
キリスト教の牧師というよりは社会運動家として知られている賀川は、おそらく、次に掲げる新約聖書福音書の「見失った羊のたとえ」(ルカ15:1~7)という話から、このスローガンを導き出したのだろうと、私は推測する。(賀川の光と影の部分については割愛する)
【徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄ってきた。するとファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで探し回らないだろうか。そして見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』というであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。】
ここに言う「罪人」は刑法上の悪人というよりも、アムハーレツと呼ばれ、「正しい人」のユダヤ人社会から差別、排斥されていた人々である。また「徴税人」は、ローマの植民地支配下にあって、ローマとユダヤ教会の両者に税を納めさせられた民衆から、憎悪された存在だった。
99匹(「正しい人」)は野原の安全地帯にいるが、見失われた、あるいは99匹から「はみご」にされた1匹(「罪びと」)はそのままにされるのか、見て見ぬふりに捨て置かれるのか、という問題は日常的によくあることだ。教員をしていた頃は、常にこの種の問題を抱えていた。
たとえば修学旅行。クラス全員が参加する予定だったが、いざ当日になると、1人が来ない。見切り発車するか否かと悩む。当の生徒は来ず、これ以上待てない。全体のスケジュールが狂ってしまう。しかたなくバスは発車する、というのが落ちである。1人と99人を天秤にかけて、99人を選ぶことになる。これは比較の論理である。ある社会学者は、この論理をギリシャ・ヘレニズムの思考と言った。
これに対して、あくまでまだ来ぬ1人を待ち続け、場合によっては皆で迎えに行き、少々予定のスケジュールに支障をきたしても、全員が揃って出かける。これを同学者は、ユダヤ・ヘブライズム思考と言った。これは比較の論理ではなく、絶対の論理である。イエスは、もろにこの論理で、イエスを非難するファリサイ派の者達に反論しているのである。イエスは、1匹を通して99匹を見ようとする。「天」(神)から見れば「罪びと」も「正しい人」もない。
今日のデモクラシー国家の在り様は、18世紀の社会契約論に端を発している。その社会契約論の代表的な人物はJ・J・ルソー。かれは社会契約に基づく国家は、私的利害を持つ個々の意志の総和(全体意思)ではなく、個々の利己心を捨てた一体としての人民の意志(一般意思)に従うべきであると説いた。「最大多数の最大幸福」というベンサム流の比較の論理で進むデモクラシーを批判し、それでは救われない、もしくは排除される少数者の立場と権利を擁護した。ルソーは、イエスの論理を用いていると、私には思える。賀川は99匹を「万」に拡大したが、論理は同じである。
ここまで、1匹(少数者)の側から99匹(多数者)を見ることに重点をおいて見てきたが、99匹から1匹を見ることに重点を移して考えてみる。99匹は安全な野原にいるようであるが、内心は不安である。なぜならもともと100匹いたのに、1匹が消えたからである。それでも、直接自分の身に降りかかってこないものだから、自分のことではないと見て見ぬふりをし、多数者に位置する自分は安全と思っていた。これが実は大間違いであったということを身をもって示してくれた人物がいる。牧師で神学者のM・ニーメラーである。
彼はナチスが抬頭してきた当初、それに共鳴していた。ところがナチは、政権を握るとまずドイツ共産党を、労働組合運動を弾圧した。ニーメラーは、彼らは無神論の共産主義者だから弾圧されたのだと思った。ナチは次に社会民主主義者を、さらに自由主義者をと、順々に抑え込んだ。それでもニーメラーらはキリスト者だから、教会にまでナチは手を出さないと思っていると、ナチはドイツ的教会・ゲルマン的キリスト教界を組織し、ニーメラーたちに改宗を求めてきた。ニーメラーらはナチに抵抗してドイツ教会闘争を開始したが、時すでに遅しだった。彼らは収用所に閉じ込められてしまった。
虐げられている少数者・一匹の羊を見て見ぬふりをしてこれを捨て置くとき、多数者の人権もまた漸次瓦解していくのである。(藤原史朗)