「元号」使用をやめよう-私たちにできること - 一般社団法人在日コリアン・マイノリティー人権研究センター

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「元号」使用をやめよう-私たちにできること

【投稿日】2019年6月5日(水)

 KMJの会員の皆さんや読者にとっては起きるべくして起こった現象だったかも知れない。新元号の施行をうけ、5月1日の日本全土で奏でられた「狂想曲」ほど異様な社会現象は世界を例にみない現象であったというほかない。新聞やテレビをはじめとするマス媒体の報じる新元号発表をめぐる騒ぎのことである。例をみない、と言ったが正確には、類をみない、という方が正しい。そう、現代社会に元号などというものを使用している国はどこにも存在しない。
 その理由はいうまでもなく、国の支配者または国の権威を代表する元首的存在の生死や即位に係わる紀年法は人々の社会生活に不要で不便なものであるからだ。そのことはこの列島を一歩離れたら日本年号はいっさい役に立たないばかりか、普段から日本年号を当然のこととして使いなれている人々の場合は自分の生年月日すら咄嗟に書けない人もいる。そんなことは本人の好みの問題だ、という人々の言いたい。そもそも元号とはもともと天皇の生死にかかわって作られたものではない。社会の特別な異変や事実上の支配者であった征夷大将軍の交代などの時に代えられたことの方が多かった。あの騒ぎをかき立てたマスコミも、日本政府とその関係者も誰一人としてそのことに触れた人はいなかったと思う。ただ法的根拠としては1979年に制定された元号法があるだけだ。ということは、1947年の現行憲法施行からその時まで元号がなかったことになる。だからというわけではないが、その間も今も元号不使用で罪に問われることもない。私個人は過去も現在も西暦ばかりで生涯を過ごしてきたが、なんらの不便を感じたこともない。ところが今も行政の諸届けや銀行の窓口ではあらかじめ日本元号が記入されている用紙を手渡される。ときたま「貴方は国籍が違う方ですか」と問われたこともある。なかには物好きな欧米人がいてわざわざ日本元号を書いていた人もいた。これなどはいわゆる異文化体験を楽しんでいるに過ぎないのだが、かつて日本元号使用を強制された在日コリアンを始めとする外国籍の人々、とくに新来の人々にとっては不便かつ非実用的と思っているだろう。私が問題にしたいのは、そのようなことばかりではない。この「挙国一致」ともいうべき現象の背景には大きな「たくらみ」が隠されているのではないか、ということだ。その第一はいうまでもなくここ数代の日本の政権担当者や支配階層が熱心にその罠作りにいそしんできたナショナリズムの大渦に日本に住むすべての市民を巻きこんでしまうことだ。元号が変わったとしても、経済不振が解消し、未来に希望がもてるわけでもない。政治が良くなるわけでもない。私には異常な元号ブームはひたすら内閣支持率をあげ、選挙に勝つことに腐心している策謀がすけて見えて仕方がない。もう元号を使うことはやめよう。(仲尾宏理事長)