市立尼崎高校バレー部体罰事件 人権教育はどうした!② - 一般社団法人在日コリアン・マイノリティー人権研究センター

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市立尼崎高校バレー部体罰事件 人権教育はどうした!②

【投稿日】2019年8月12日(月)

 このような市尼の人権教育システムは、生徒一人一人を大切にするというスローガンとなり、差別を赦さない、差別されないが、教職員、生徒ら市尼全体が享受する校内倫理になっていたと言える。当時、人権学習特設ホームルームに入る前に、よく無記名のアンケートを実施した。そこでは、1年次あったいじめの事象が、学年が上がるにつれて減少し、3年次ではほとんど見うけられない状態になっていることもわかった。この取り組みの成果だった。部落解放研や朝文研の生徒らの活動は、人権学習特設ホームルーム活動を軸に活発化し、1982年には在日コリアンの女生徒3人が民族衣装のチョゴリを身に着け卒業を果たした。(以後、2004年まで17回のチョゴリでの卒業が実現する。)しかし大きな曲がり角がやってくる。

 その前兆が、一人の在日コリアン生徒の指紋押捺拒否をめぐってだった。1984年、私も与してきた全国在日朝鮮人教育研究協議会兵庫大会の終了の翌日、市尼3年生のK君が、外国人登録証の書き換え更新に際し、指紋押捺拒否に単身踏み込んだ。学校として彼の行動をどう受けとめるか、夏季休暇中であったが、連日職員会議が開かれた。職員の意見は二つに分かれた。①押捺拒否は、理由はともあれ、法違反の非行である、②強制指紋が人権抑圧であり、それを拒否したK君を支えるべきである。顧問側から、市役所が押捺拒否者として警察に告発せぬように、市長あてに嘆願書を職員一同で出すという案を提案した。①の意見に賛同する者が大半であり、②に賛同する者はわずか、ということは予見できた。だから採決を求める意見に対して我々は抵抗し続けた。この窮地を救ってくれたのは、重症の糖尿病治療をうけながら通勤のTさんだった。「身体大丈夫か、無理しなや、と皆さんがかけてくれる声に励まされて勤務できている。K君が、夏休みあけて登校した時、お前は『不法行為』をした、よって謹慎やと言うのではなく、K君つらいけれど頑張れやというのが、わたしらやないのか。わたしらはどんな人権教育をしてきたんや」。重病の体を押して職員会議出席の彼の言葉で、結論が出た。Tさんは、この半年後に亡くなる。命をかけての発言だった。

 「K君を警察に告発しないでください」の嘆願書をしたため、教頭と市役所に出向いた。その車中、わたしは教頭に訊いた。「なぜ3年毎に在日の入学者数が激減するのか」。阪神間は総合選抜制。各学区ごとに学校長が集まり、合格した生徒のパイを分け合うシステム。2年間は、毎年、10名、もしくは数名の在日の入学があるのに、3年目には2人、もしくは1人になる。「在日の生徒の流れを切りたいのでは?」と問うた。教頭は返答に窮した。翌年から以前とほぼ同じ入学者数に戻った。もしあの時、Tさんの命をかけた発言がなかったら、市尼の人権教育は大幅に縮小されたか、おざなりになったのでは、と思うこと度々だった。それから7年経過。われわれの杞憂を飛び越える大きな事態が発生した。

 筋委縮症を病むT君が市尼を受験し、不合格になった。1991年アメリカと多国籍軍がイラクに攻め入る湾岸戦争の年。T君は同じ中学の同級生周知のトップ級の学力成績で、彼の不合格は誰もが不審に思った。住まいは市尼まで1キロ足らずにある。このおりの入学選抜試験判定会の座長は市尼の校長だった。「受け入れ体制が十分ではない、養護学校にまわるべき」と言いたいのだろうが、最後まで明確な返答をしなかった。学内の職員会議で入学を認めよの要求を突きつけたが、職員全員の支持はなく、校長の一存では決定できないと言うので、学区の選抜試験判定会、市教育委員会、県教育委員会へと、障碍者団体・市民団体と市尼職員の数名は要請を続けるが、たらい回しに遭い、返答は無しだった。

 「障碍を理由に不合格」のこのあまりにも露骨な障碍者差別入試問題は、全国ネットで1年中マスコミで報道された。また辛かったのは、「人権教育があれほど取り組まれているのに、何故、こんな問題が起きたのか?」のわれわれへの問いかけだった。野球部をはじめ、学区以外、他府県からも、架空の住所変更(登録の住所に本人無居住)をして市尼に在籍している現実も露見した。T君支援の市民団体は、諸党派を超えて裁判に訴えた。校長は一度も出廷せず。校長側が用意した証人尋問で、市尼はT君以前に同病の女生徒を入学させており、その学年の主任を務めた同僚は、大変だったが、母親や教職員、生徒らの協力を得て、無事彼女が卒業できたことを証言した。この証言は、校長側の期待に反して、T君の勝訴を招いたと思う。裁判所は市尼に対して入学を認めるように命じた。判決前、T君は市尼入学が再度不可になる場合を想定し、関西学院高等部を受験、見事合格していた。市尼校長と事務長がT君宅へ1年弱遅れの入学許可証を手渡しに行ったが、親子は受け取りを拒否した。

 この後も市尼人権教育システムは維持されたが、障碍者差別の張本人の校長は、全く登校せず、市尼高校として、T君を不合格にした差別事件についての反省や総括というものは出されずのままであり、教職員の意識がさほど変革されたとは思えない。逆に人権問題を避けて通るというような雰囲気が漂った。校長は卒業式にも学校に現れず、教頭が卒業証書授与を代行、その後校長は辞職し、離任式も欠席したが、なんと新年度4月から尼崎市教育センター所長に就任し、定年までその職にいた。このことに触れた当時のPTA会長は、80周年記念式典(2013年・記念講演南果歩)にふれつつ「入試問題で当時のK校長には大変苦労をおかけし今も心にいたく思い出します」(『創立100周年記念誌』100周年によせて)と校長を忖度する文章を記している。そこには校長をいたわりはすれ、T君への謝罪の言葉など微塵もない。

 1995年市尼は阪神淡路大震災の被害をもろに受けた。他学校間借りとプレハブ校舎での3年間後、1998年に、本館5階建エレベーター4台付の新校舎は国の予算で、温水プール・多目的ホール教室・エレベーター付きの体育館は尼崎市予算で、落成した。震災が契機になったこともあるが、他の公共の建造物、とりわけ学校などの教育機関にエレベーターが設置されるようになったことは、障碍を理由に不合格にされたT君の事件が世に与えた影響と、無関係ではないとわたしは思う。(つづく)

藤原史朗