【投稿日】2022年3月3日(木)
2月1日、石原慎太郎が亡くなった。人間を一面だけで評価してはならないことは重々承知であるが、あえてここで、彼は生粋のレイシストであり差別主義者であったと断言しておかなければならない。なぜなら排外主義がはびこり、それを容認する風潮にある日本社会では、彼の差別発言にたいする批評がないがしろにされてしまうであろうからだ。
実際、彼の差別発言を批判した山口二郎・法政大学教授のコメントに対して、「死者への冒涜」「人間のくず」等との猛烈な批判が殺到した。そして新聞各紙では、彼の数々の差別発言を曖昧にし、むしろ彼を英雄視する報道が目立った。リベラルな朝日や毎日ですら、彼の数々の差別発言を「石原節」や「放言」として批判せず矮小化して報道した。昨今の日本社会の風潮に迎合してしまったかのようだ。私の知る限りでは、東京新聞がその反省に立って石原の差別発言にたいする検証記事を掲載した。唯一の救いである。
さてKMJは過去に二度、石原の民族差別発言にたいする抗議行動を行った。一度目は2000年4月9日、陸上自衛隊練馬駐屯地の創隊記念式典において、当時東京都知事であった石原が「不法入国した多くの三国人、外国人が非常に凶悪な犯罪を繰り返している・・・すごく大きな災害が起きたときには大きな騒擾事件すら想定される・・・そういう時に皆さんに出動願って・・・治安の維持」と発言した。いわゆる「三国人」差別発言である。
4月12日にKMJの関連団体が抗議声明を出し、14日に抗議集会を開催した。石原は当初、開き直る発言をメディアで繰り返していたが、民族団体や人権団体からの抗議を受け、19日の都議会民主党に対し「この言葉(三国人)は、私の意図と異なり、差別的に使われていたため、在日韓国・朝鮮人をはじめ一般外国人の心を不用意に傷つけ」たと遺憾の意を表明した。しかし当事者に対する謝罪は最後までおこなわなかった。当時、東京都に寄せられた1208件の反響のうち60%が石原発言を支持するものであったことも深刻であった。
二度目は、2006年9月15日に東京都内でテロなどの危機管理をテーマにおこなわれたシンポジウムで石原は「不法入国の三国人、特に中国人ですよ。そういったものに対する対処が、入国管理も何にもできていない」と発言した。またもや「三国人」差別発言である。石原は前回の発言をまったく反省などしてなかったことが明らかになった。KMJは9月20日に石原への抗議文と東京都人権部にも要望書を提出した。しかし当時は運動も盛り上がらず、石原はKMJの抗議に対しては無視、東京都人権部は「回答する立場にない」とした。
戦後、在日朝鮮人や中国人を侮蔑する民族差別語がメディアや映画、漫画などで使われてきた。その象徴的なのが「三国人」だ。GHQが戦勝国、敗戦国のいずれにも属さない解放国民として、旧植民地出身者たちを「第三国人」(The Third Nation)としたのが始まりで、日本政府やマスコミが使いだし、朝鮮人は「日本にとって迷惑な存在」「犯罪予備軍」という差別意識を生み出し、差別的な意味で「第三国人」が使われるようになった。特に戦後の小説や映画で「闇市で暴れる朝鮮人=三国人」が数多く描かれ、戦前から引き継がれた日本人に根付く朝鮮人への差別意識と、仕返しをされるかも知れないという恐怖心とがあいまって、浸透していった。しかし、実際、「闇市」の構成員は8割以上が日本人であり、朝鮮人とのいさかいはあったろうが、全体から見れば、騒ぎ立てるほどのことではなかったであろう。しかし、小説や映画で「闇市」における朝鮮人たちの振る舞いが誇張されていく。石原の言うように「騒擾事件」を起こす存在として認識されていくわけである。関東大震災時における朝鮮人虐殺事件の背景とまったく同じである。その後「三国人」をはじめとする民族差別語が無自覚的にも使用され続けたが、1970年代になって運動団体やKMJなどの研究団体、研究者などが、新聞社や出版社に対して糾弾、協議、そして啓発を重ねた。戦前からつづく朝鮮人への差別意識の検証・克服の作業であった。そして多くのメディアが受けとめ、民族差別語の使用には十分に注意が払われるようになったのが、90年代だった。
しかし、そのような営みをぶちこわし、民族差別語を復権・再生産したのが石原であった。小説家であり、裕次郎の兄であった彼の影響力は絶大であったからだ。そして多くの市民が彼を支持し続けた。その後は、見ての通りである。ヘイトスピーチが公然と垂れ流され、震災などの災害時には、デマであふれかえるようになった。ヘイトスピーチをしても謝罪も辞任もしない政治家ばかりになった。企業のトップも平然とヘイトスピーチを垂れ流すようになった。そして、今の東京のトップは、「排除します」と豪語し、関東大震災時の朝鮮人虐殺を否定するあの人である。
そう、昨今ヘイトスピーチが公然と垂れ流されるようになった素地は、石原の存在にあったといっても過言ではなかろう。石原イズムはしっかりと継承されてしまった。2000年の抗議集会で、石原の発言をこのまま許してしまえば、第2、第3の石原が誕生してくる。それは絶対に阻止しなければならないと、参加者は決意した。しかしもはや第2、第3どころではなくなった。我々も大いに反省しなければならない。
そして「三国人」発言を聞くと、在日1世たちに思いを馳せずにはいられない。戦後は「三国人」と蔑まされ、あらゆる社会保障や社会活動から排除された1世たち。その辛苦は我々の想像を遙かに越えるだろう。1世たちの名誉回復の意味でも、石原を(彼だけではないことは十分承知の上で)非難しつづけなければならないのである。(高敬一)